DYLAN CUTHBERT氏は任天堂との過去について話し、
宮本氏は彼にSONYと協力しないように頼み、
未発表の宮本プロジェクトに言及している
https://gonintendo.com/stories/334264-dylan-cuthbert-talks-about-his-past-with-nintendo-says-miyamoto?page=1
>StarFox 2がキャンセルされたとき、我々は大きなさよならの食事に行きました、
>そして、宮本は彼らが新しくリリースされたPlayStationとSaturnコンソールより
>劣っていると知覚されたくないと私に説明しました。
<中略>
>彼は、「ただ「S」で始まる会社のために働かないで」と鋭く言った。
>もちろん、私はすでにフォスターシティのPlayStationで誰かに話しかけていたので、
>激しく笑わなければならなかった。
買取保証失敗!w
http://krsw.5ch.net/test/read.cgi/ghard/1556498251/
PSに鉄拳2とバイオ1とFF7の発表出るまではな
ロンチのリッジとバーチャ比較して、明らかにPS1が上とみんな理解したよ…
バーチャブームってのがあったんだよ
バーチャ1と2はキラータイトルだった
バーチャコップ2とかが出る頃迄がサターンのピークだった様な気がする。
ガンシューティングで光線銃があれほど国内で売れた事は重要だと思う。
Switchでセガのガンシューティングシリーズ全部出ないかしら。
あの後に海外のサターン事業失敗が確定して、それを受けた結果FF DQのPS登場に繋がってる。
まぁ32Xの投入とかグループ全体の協力体制が出来てない時点で負けるのは仕方なかったよな。
>>3
ソニーが行くぜ100万台のCMに対しセガはありがとう100万台キャンペーンだったしなw
その後ソニーが慌てて行ったぜ100万台のCMをやっていたが
そのNECもFXでコケてたからサターンが脅威だったのは至極当然だったからね
時代が予想以上に3D化に突き進んだのが誤算だったんだろうけど
で、片方のSはハードから撤退し
もう片方のSは国内で腐臭漂わせ
いまや「S」をつけたタイトルには
「スイッチで発売か!?」と右往左往
Sの意味も大きく変わったもんだなァ
WiiにはないけどSが付くハードって成功する法則あるよな
DSもだし
ドリキャスは当たったとは言いがたいような
買ったけど
ファミコン「僕は?」
NES
セガサターン 1994年11月22日
PlayStation 1994年12月3日
ニンテンドウ64 1996年6月23日
64の発売遅すぎだろ
当時のことはよく知らないがもっと早く出せてたらまた違った結果になってたんじゃないのか?
やっぱゲーム機の歴史上先に出した方が圧倒的に有利だよな
>>19
カートリッジにこだわったためソフトの価格がなぁ・・・
性能は誰が見ても上だったのに・・・
ソフト価格の問題ももちろんだが容量の問題もあったな
64のROMは最大でも64MBだがPSはCDだから650MBくらいか
10倍も差があると厳しいな
特に当時は綺麗なムービーを見せるゲームが流行ってたし、
仮に64とPSが同時発売だったとしてもサードのほとんどはPSに参入しただろうね
やっぱロムカセットの採用が最大のミスかな
ただCDはロードとセーブ時間がネックになるな
だもんで今やると64のゲームの方が快適
サターンは本体にSRAM内臓だからアホみたいに速いぞ
ハードの構成次第
データの先読みの仕方とかメモリの効率的な使い方が浸透しだしてたんだろうけど
まあ、FF9は問題外だったけどね
PS1や2より性能は上だったような気がするんだが
64もGCも後出しジャンケンだけどな
発売日はどっちも1年半遅れだし
いうて6600万ポリゴンの印象とハード性能をしっかり上回れたのはえらいよ
企画的にはロード0とか言ってたらしいけど
PS2の6600万ポリゴンはCPUの演算性能とされるもので
GPUの描画性能となると秒間7500万ポリゴン(微小3角形の生ポリゴン時の理論値)ともっと吹かしてるからな
けど特殊処理を重ねたら使えるポリゴンもどんどん減っていくってなことも書いてたし
ソフトのクオリティが普通に高かったのもあるんだろうが
スマブラとかプレイ中に停止してカメラ動かして作り見てたわ
まともに使えたのは任天堂関係の会社ぐらい
ハル研も64初期は任天堂に依頼された開発ツールの作成に追われて全然ゲーム出せなかったんだっけな
今はゲームエンジンで下回りは用意しなくて良くなったが、これをゼロから組むのは相当辛いわ
任天堂のラスボス感な。ちょこちょこ漏れ出てくるウルトラ64のスペックやらマリオ64やらの情報にも、気が気でないゲーマーは多かったし
SFCは全世界で約4900万台で、そのうち約1700万台が日本
当時、ゲーム会社の中でも最大手と目されていたエニックスは、SFC時代は海外進出してないぐらいだし
日本市場の重要性が今とは段違いで大きくて、日本市場だけでも大手が十分やっていける時代だった
エニックスは外注のドラクエだけで内製持ってないザコ会社だぞ
単に海外に進出する体力が無かっただけ
セガ、カプコン、コナミ、ナムコ、SNKといったアーケードもやってる大手はアメリカ市場の大きさと重要性を認識して鎬を削ってた
セガがジェネシスをダンピングまがいの売り方までしてSNESに対抗したりな
エニックスは進出してただろ
スクウェアとかと同じく撤退に追い込まれただけで
当時64は唯一フル3Dで高低差有る広い世界が表現出来るハードだった
そしてエンカウントや細かなエリア移動のロードに10秒が珍しくなくなる中で
64はロード時間皆無、ロムの価格も改善されていった
だが時代はプリレンダ垂れ流しとフルボイスを求めていた
結果的に任天堂はリアルタイムレンダに、他社はプリレンダの専門部署や委託に投資した
ユーザーにとってはPSやSSより良ハードだった
少数精鋭路線とか言ってたけど、開発現場で大卒レベルの基礎学力がある人員が少なくて
出来る人が限られてたってのが実態じゃなかろうか。
64のマイクロコードセットに旧来の2Dゲーム機的なのが有ればもうちょっとソフトも出てたんかな。
ってのが当時の風潮
コメント
正直周りは64しか持ってなかったから負けハードの実感がないんだよな
遊ぶといえばスマブラだった